福岡市早良区 ピアノ教室 講師紹介

教室代表 江崎ひろみ

 

ピアノ・キーボード担当

保育士試験対応。

中学・高校の音楽テスト対策もしています。

幼少の頃 

宗像市生まれ

3歳の時、紙にピアノを書いて「ピア、ピア」と言ってピアノを弾く真似をしていたらしいです。

人見知りで、兄と一緒に母のスカートの中に隠れるような引っ込み思案な幼少期でした。

 

おしゃれなピアノの先生 

1年生に上がる直前にやっとピアノを習い始める。

超田舎の町で、地域に一人しかピアノ先生がいなかったため、必然とそこに習いに行くことになりました。

上品な優しい先生で、いつもジュースやおしゃれなお菓子を出してくれて、その記憶の方が強いかも。

ただ、できる子は先生の出身音楽大学に行くのが当たり前で、私も小学生のうちにそこへ入るのだとすでに決められていました。

母が(かなりの鬼)練習中ずっと横についていて、ちょっとでもまちがえるときつく怒られました(母は弾けないのに…)。へたくそ!と言われ、今でもトラウマです。

生活面でもとても厳しかったので、ビクビク顔色を伺ってました。

ピアノも、この頃好きだったかどうか分かりません。

教室では、門下生の中でも上手だったらしくて、時々何人かの他の生徒の前でお手本演奏をしていました。

運動神経が良く、バスケットや陸上の助っ人選手として活躍する場が良くありました。特に陸上は、学校内でも男子を抜いてトップだったので大会にも出場しました。

ピアノ以上に楽しかったです。

 

ピアノ漬けの毎日 

公立の地元中学に進学。

陸上部に入りたいと言ったら即効で先生と母に反対され、断念。

帰宅部となり変わらずピアノ漬けの日々でした。

この頃から、声楽の先生と楽典の先生にもお世話になり、先生が音大で習っていた教授のところにも新幹線に乗って通いました。

中学では、合唱のピアノ伴奏は欠かさずしていました。

生徒会にも立候補して書記として生徒会活動をしていました。

音大が見え隠れしていたこの頃、声楽の先生から東京の音大へ、という話も出ましたが「女の子が東京なんて危ないからダメ!」と言われ、あきらめた時期でした。

高校は、隣の市にある県立高校へ進学。

田舎から田舎への通学だったので授業によっては朝5時半に家を出ることもあり、とにかく大変だった記憶が残っています。

規則も厳しく、パツパツの前髪にぱんぱんに膨れ上がったカバン。

修学旅行はスキー教室で鬼教官。

水泳は近くの市民プールで深さ2メートルの水の中を溺れそうになりながら泳いでました。

体は真っ赤に日焼けして火傷状態で、今あるシミは全部高校のあのプールのせいだ!!と思っています(笑)

高校では吹奏楽部の大会に、ピアノ共演させてもらいました。

吹奏楽とピアノという組み合わせは珍しく、楽しかった思い出です。

 

ジュリアード出身の先生との出会い

音大は、作陽音楽大学の短大の方を選び入学しました。

そこで出会った非常勤講師の先生が、ジュリアード出身でバリバリとレッスンしてくれ、

初めてピアノって面白いんだな!と感じることができました。

基礎が全くできていなかったので、かなり苦労しましたが先生が根気強く指導してくださり、2年時にはオーディションを受け、合格してアメリカに夏期留学しました。

コンサートでベートーベンとラベルのピアノトリオを演奏した喜びは今でも忘れられません。呼吸を合わせる大切さを知りました。

また、先生の勧めでオーディションを受け、そのころ客員教授として来られていたピアニストの藤村佑子さんのレッスンを受けることができました。

この頃の門下生の発表会は、先生から認められないと出演させてもらえない過酷な道でした。

絶対に出演したかったので必死に練習し、毎年出演させてもらっていました。

卒業演奏会にも選ばれ、上位成績で卒業しました。

その後、専攻科に進み、卒業しました。

 

営業成績抜群

卒業後は、英才教育の幼稚園に付属しているピアノ教室に所属しました。

社会経験もない中、先生と呼ばれるのに疑問を感じてヤマハに就職し直し、ピアノを売る営業社員となりました。

ピアノが売れなくなってきた時代でしたが、成績が良くキャンペーンの時は必ず社長賞や金一封をもらっていました。

天職じゃないかと思うくらい、とにかく楽しかったです。

この頃は、店舗に置いてあるピアノや防音室の中に置いてあったコンサートグランドを、夜遅くまで弾きまくっていました。

県外で楽しく暮らしていましたが、両親からそろそろ戻ってくるよう言われ、福岡の実家に戻りピアノ教室を始めました。

 

結婚

結婚はする気がなく、子どもも持ちたいと思っていませんでしたが、夫と出会い結婚してしまいました(笑)

夫が年下なので、あなたが誘惑したでしょ!と言われますが、付き合う時も一年間告白され続け、結婚もどうしても、と言われ…

あれからあっという間に20年が経ちました。

夫は、考古学という特殊な職種分野で、遺跡を発掘する仕事をしています。

今は、博物館勤務で企画展示を楽しそうにしています。

新聞に載ったり、NHKの特集、BSに出演した映像は我が家の宝物です。

二人とも色々あり、子どもは期待していなかったのですが、結婚2年後に息子を授かりました。

夫の仕事先が県内でも離れた場所だった為、出産後も出張レッスンをしていましたが(車で2時間弱)、高齢出産のため産後の体力が限界で徐々に整理していき、最後の生徒が高校の音楽科に入るのを見届けて、いったんこのピアノ教室は終わりにしました。

 

難産、決死の出産 

出産は助産院で、自然に任せると決めていましたが、なかなか良い先生とめぐり合わず

色々と助産院を回ったあげく、ようやく素晴らしい先生に出会いました。

出産は思っていたのと違い、生まれてくるのに5日間かかりました。

出産予定日が近くなったころ名前が決まり、「名前が決まったからもう出てきていいよ!」とおなかに話しかけると、その日の夜中に陣痛が始まりました。

そこからまさかの5日間が始まるとは思っていませんでしたが…

本当に大変でしたが促進剤などは打たず、助産院の先生を信じて、子どもが出てきたい時を待ちました。

早めに入院して様子を見ることになりましたが、生まれてくる気配は全くなく痛みがだけがどんどん強くなる中、動いた方が良いとのことで助産師の先生と夫と近くの公園に歩きに行ったりしました。

頑張って歩いていると、陣痛がきて「う~っ!!!」と座り込み、歩く、座り込んで呻く、の繰り返しで、周りの人たちから怪しい目で見られてました!

公園においしいパン屋さんがあり、妊娠中ずっと我慢していたパンを食べてもいいよ、と先生からの嬉しいお言葉が。

痛みで食べられるかな、と思いましたが久しぶりの大好きなパン。

痛みの合間を狙って、しっかりいただきました。

今でもその公園に行くと、あの痛みと、おいしいパンを思い出します。

 

感動体験

5日の痛みに耐え抜き、先生から今日生まれるよ!と、神の声がかかりました。

その時、私の感覚はすでおかしくなっていて、最後の痛みはゼロ。

逆に子どもが産道をブルブルと震わせながら降りてくる感覚だけがありました。

色んな出産方法を考えていましたが、結局は夫に抱きかかえられ、2人で可愛い息子を迎えることができました。

こんなに大変な経験を乗り越えたのだから、人生なんでもできる!と思いました。

 

後日談

息子が3歳くらいの時にその時の様子を覚えているか聞いたら、とにかく怖くておなかから出ていきたくなっかたけど、一緒にいた仏様からそろそろ行きなさい、と背中を押され出ていったらニコニコ笑った御不動様が待っていたと言っていました。

2歳の時に実家の仏間に入る際、誰に教わったわけでもないのに入り口に立ち止まって手を合わせ深々とお辞儀をして入っていました。

子どもは仏様の国から来るという話は本当なのかも、と思った瞬間でした。

良く泣き、良く笑い、息子のおかげで人として本当に成長させてもらえました。

こんな私を無条件に全身全霊で愛してくれ、母にしてもらい、子育ては今でも感謝の連続です。

子どもは、夫婦が出会うずっと前からこのお父さんとお母さんのもとに生まれるのだと決めるそうですが、私もあの両親のもとに生まれたから、夫や息子との出会いがあったのかな、と考えたりします。そうすると、鬼だった母のことも何だか許せてきて、逆にありがとうと思えるようになりました。

私には鬼だった母も、孫は目の中に入れてもいたくないほど可愛かったようで、たくさんの愛情を注いでくれました。

母はもう亡くなりましたが、感謝の気持ちしか残っていません。

子育てという奇跡がなければ、私は今でも卑屈に母や色々な人を逆恨みして、自分の人生を台無しにしていたと思います。

 

嬉しいピアノ教室の再開

息子が小学生になり、周りのお母様方から子どもにピアノを教えて、と言われるようになりました。

口コミでどんどん生徒が集まり、またピアノ教室を始めることができました。

ピアノから離れざるを得なかった時期もありましたが、もう一度ピアノが私の方を向いてくれ一緒に歩いて行けると嬉しくなり、迷わずピアノの先生としてもう一度頑張ろう!と決めた時期でした。

 

思い出の生徒

今の教室での初めての生徒は、保育園の男の子。

感がよく、耳で聞いた音をすぐに弾ける才能を持った男の子でした。

残念ながら途中で止めてしまいましたが、今その子はフィギュアスケート男子となり、頑張っています。

テレビで活躍する日も近いかも。

ピアノで培ったリズム感、役立っているかな?

先生はいつも応援しています。頑張れ~!

 

コンクール

教室では、練習がなかなかできない子でも、感動体験をしてもらうためコンクールに挑戦します。

練習しておいでね、とって言っても塾や他の習い事に大忙しの子どもたち。

レッスン中に少しずつ弾けるようにして帰します。

グレンツェンピアノコンクールでは優秀賞多数、九州山口ジュニアピアノコンクールでは審査員奨励賞、みんなコンクールでぐっと伸びていきます。

もうちょっと練習すれば良かった、などピアノの練習に対して前向きなコメントもチラホラ出てきます。

頑張った子は、高校の音楽科に見事に合格。

大人の生徒さんで保育士に挑戦して合格した方や、音楽の道には進まないけどヤマハグレード7級に合格した子もいます。

小学校や中学校の合唱伴奏にも選ばれます。マンモス校地区なのでピアノ伴奏者に選ばれるのは、かなりの難関です。

狭き門を見事通過した子は、やはり嬉しそうです。私も嬉しい!

 


ピアノ担当 高谷朋子

 

長崎県の諫早市出身。

長男、長女、次女の3人の母です。

 

活水女子短期大学音楽科(ピアノ専攻)を卒業した後、ヤマハ音楽教室システム講師として働き、結婚後、ヤマハを退職した後は、子育てをしながらピアノを教えていました。

ピアノを弾くことが大好きになって欲しい

たくさんの曲に挑戦して欲しい

色んな思いでいっぱいです😊

ピアノを習ってよかった!と思える様に、生徒さんひとりひとりと心を通わせながらレッスンできたらと思っております。

 


育脳リトミック・シニアのライアー・胎教音楽クラス担当 西川久美子

 

3歳からピアノを始める。

幼稚園で習った曲を家で弾くことが楽しみな幼少期。

中学の吹奏楽部でユーフォニアムに出会う。

演奏することの楽しさに夢中になり、大阪音楽大学に進学。

在学中に音楽療法を学び、継続的にサークル活動にも取り組む。

現在は、2015年に出会ったライアーの演奏活動を行いながら、

リトミック講師として活動中。

1児の母として奮闘しながら、リトミックの楽しさを、

多くの人に伝えられるよう、自分自身も日々学びながらレッスンを行ってまいります。

 

 


子ども~シニアのコーラスクラス担当

松尾直人

 

福岡市出身。

福岡教育大学大学院教育学研究科教育科学専攻教科教育創造コース音楽教育領域修了。小森輝彦、佐々木洋平、辻政嗣の各氏に師事。ピアノを中村寛子、山田力の各氏に師事。これまでモーツァルト作曲「戴冠ミサ」テノールソロをはじめ、「愛の妙薬」「椿姫」「メリーウィドウ」等の作品にキャストで出演。昨年あいれふホールで行った演奏会では、満員のお客様から好評を博した。現在、麻生医療福祉専門学校講師。日本音楽表現学会、全国大学音楽教育学会、九州公私立大学音楽学会会員。

皆さまが既にもってる美しい声を、より豊かに発声できるようレッスンします。

音楽が好き、歌うことが大好きなみなさまとレッスンでお会いできますことを楽しみ       にしています!